「NO」を額面通りに受け取ってほしい

昨日は息子の入学式だった。

息子は幼稚園年長は殆ど行かなかったけど、

小学校は行く、と意欲を見せていたので

まあ、多分行かないだろうと思いつつ

制服ランドセル靴などを一通り揃えた

 

娘が小学校に入学したときは、やはりそれなりに高揚したものだ

下の子は同時に幼稚園に入園したので

やったー!自分の時間が出来る!みたいな嬉しさがあったと思う

少し楽になる、という期待があったと思う

実際はそんなことはなかったが(私の場合)

 

明らかに、今回の入学式は前回とは違う心持ちである

なんというか、息子が軍隊に入隊するみたい、というのは言い過ぎか

軍隊知らないし

 

今までの、自由で・のんびり・楽しい生活から

コンクリートの・無味乾燥な・規律ある生活になり、

それがこの先ずっと続く、というイメージ

 

不安しかない

 

まあそうはいっても本人が行くと言うので

粛々と儀式に出席する準備をする朝

 

裏の家に住むばあさんだけが、なぜか浮き足立っている

写真を撮りたいから、出掛けに声かけてくれ、

なんならそっち行ってもいい?

とのこと

 

この忙しいのに、ばあさんが家にくるなんて、

私は怒ってしまうに決まっている

だから、「忙しいから来ないでほしい」と返事をしたら

そうかーサミシイナ・・・と返事

未練タラタラな返事をよこすときは、

必ず現れるのだ

「遅いから見に来た!」とか言って

 

だからなんとしてもそれは阻止したい

10分前に家を出よう!あいつが来る前に!

と思っていたら・・・

 

息子が「お腹すいたからパン食べてく〜」と出る直前に言い出した

ほんの30分前までぐーすか寝てたもんだから

当然朝食の時間はない

息子だけでなく、私も夫ももちろん食べてない

そりゃあ、お腹空くよね!

 

急いで牛乳と菓子パンを食べさせる

ばあさんが来てまうやないか〜と焦る私

 

息子は入学式に行きたくないから、わざと時間を稼いでいるのである

行きたくないのに、行くのである

これが社会というものよ

 

菓子パンを半分くらい食べて、靴をはいて、ようやく出発!

と玄関をでると階段をばあさんが昇ってきていた

うちはエレベーターなしの4階だから年寄りには大変なのだ

ゼイハアしながら

「・・・遅いから・・・見に・・・きた・・・」

 

「「「来るなって!言ったでしょうーーー?!」」」

 

怒ってしまった

 

ばあさん曰く、入学式だから、特別な日だから、門出だから

お祝いしたい気持ちはあなたもわかるでしょう?

 

わかんねーよ!!

 

どんな気持ちでこれから我々が入学式に臨むと思ってるのだ

ルンルンルンって?一年生ね、楽しみねって?

どう考えてもそれはないだろう

こちとら幼稚園も行ってないのだ

それが小学校なら楽しく通えるとどうしたら考えられるんだろう?

 

近所のおばさんなら「おめでとう」って言われたら

「ありがとうございます」って素直に受け取るよ

近所のおばさんは家に押しかけてこないしさあ

 

このあとしばらく怒りがおさまらず、

夫にグチグチと思いをぶつけてしまった

 

普段はばあさんに批判的な夫だが

さすがに、「そんなに怒ったらかわいそうだよ」と同情的

 

わたしだって、年寄りに対して大人気ないとは思う

でもさ、これって、私くらいの年代の人は

色んな人から日常的にされてきたことだと思うんだよ

 

「NO」という言葉を額面通りに受け取ってもらえないの

 

こちらの発した「いやです」という意思表示を

「そうはいっても〜でしょ」と曲解したり

「こちらの立場もあるから」とすり替えたり

「そんな我儘がまかり通ると思うか!」と恫喝されたり

 

いつもどうせ聞いてもらえない

一応意見は聞いたよ?でも、ダメなもんはダメなのよ

という理屈ではない理屈で、押し切られて気がする

 

私が、殆どの人に対して「言葉が通じてねえな」と思ったり

「言葉が通じなそうだな」と話すのを諦めてしまったりするのは

「NO」を「NO」として聞き入れてもらった体験が乏しいから、ではないだろうか

 

ハラスメントの問題について「コミュニケーションは受け手が決定する」

安冨歩さんが話してたけど、受け取りたくないものに対して「NO」と表明してるのに

それを無視すること、これがハラスメントなのかな

 

自動販売機だって、使えないコインが挿入されたら「NO」と言って吐き出せるのに

私の人権は自動販売機以下か

 

まあ、それは大げさだな

 

親子関係だから土足で踏み込まれてしまう、というのは大いにあると思います

 

実際、私だって娘に対して、一度「NO」と言われても

ネチネチ粘って翻意を促す、ということをしばしばやってしまっている

それをやらないように、今、一生懸命練習中である

 

子供たちの「NO」を額面通りに受け取る練習

子供たちの「NO」にゴネない、不機嫌にならない練習

子供たちを人間として尊重する練習を、今、している

 

そういう練習をしていたら、

自分の「NO」が軽んじられた時の怒りがすごいことになってしまった

 

え?なんで?「NO」は「NO」なんすけど・・・

という新鮮な驚きの連続である

 

学校は特に、「NO」が通じないところだ

先生たちは「NO」を受け取る回路を持ってないので、バグってしまう

そして私は諦めてしまう

 

親に対しては怒りになって表れるのだから

やはり親に対して期待するところがあるのだろうと思う

お母さん、何でわかってくれないの?って

まあでも、齢77のばあさんが変わったら怖いし、気持ち悪いから

私が怒りたいだけなのかもしれない

 

誰かの「NO」を「NO」として受け入れないとどうなるか、知ってますか?

 

ヒトは、自分を軽視し、コントロールしようとする人物から

なるべく距離をとろうとするだろうし、

会うのが嫌になって、どんどん疎遠になっていきますよね

 

私は娘が、私には何も話さなくなって、私からどんどん離れて行ってしまったら

あるいは娘に「お母ちゃんなんて嫌い、会いたくない」なんて言われたら

本当に嫌だ悲しい泣いてしまう

 

嫌われたくないと思ったら、その人をまるごと受け入れるしかないのですよ

ここが嫌だから変えてくれ、とか言われたら

そんなん知らんし、って思うのが人の常である

 

・・・そうか

母に「NO」を受け取ってもらえないということは

私は母にとって、嫌われてもいい人間なのだな

まあ、ばあさんだって「NO」を額面通りに受け取ってもらったことないから

それが当たり前だと思ってるだけで

深い考えがあってやってないのはわかってる

 

ばあさんの人生の中で受け取られなかった無数の「NO」は

心の奥の深いところにある箱の中にしまわれているのだろうか

それは誰にも知られることなく、このまま墓場まで持っていくのだろう

 

子供たちの世代には受け継ぎたくない遺産である

 

この記事を書いた人

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リョウコ

1974年生まれ。子供が2人と旦那が1人で、栃木県在住。
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