先日、娘の小学校で
授業参観がありました。
国語の時間は、
『おおきなかぶ』という話を
題材にした授業が行われました。
あらすじ
おじいさんが畑にタネを蒔きました。
「あまいあまいかぶになれ。
おおきなおおきなかぶになれ。」
かくして、
とんでもなく大きなかぶが育ち、
さて収穫という段になって、
おじいさんがかぶを引っ張ります。
「うんとこしょ、どっこいしょ」
おおきなかぶはビクともしません。
おばあさんを呼んできて、
一緒に引っ張っても抜けません。
孫と犬と猫とネズミを呼んできて、
みんなで一緒に引っ張ります。
「うんとこしょ、どっこいしょ」
そうしてやっと
かぶを抜くことが出来ました。
・・・とまあ、こういうお話です。
どんな授業だったか?
国語の授業では、
先生が
「タネを蒔く時、おじいさんはどんな気持ちでしたか?」
とか
「大きなかぶが出来た時、おじいさんは
どんな気持ちだったと思いますか?」
という質問をして、
子供達が挙手して答えるというものでした。
みんな積極的に発言をしていて、
すごく頼もしいなと思いました。
おじいさんは、タネを蒔く時に、
タネに「甘くて大きなかぶになってちょうだいね」と
語りかけてるわけです。
そのおじいさんの祈りから
どんな心情を読み取るべきなのか?
これは、結構深いな・・・
と考えながら、授業を聞いていました。
子供達は、子供らしく、
「優しい気持ち」とか
「大きく育ってほしい気持ち」とか
そういうふんわりした感想を
述べる子供が多かったのですが、
中には、
「大きく育ったら、
みんなでおなかいっぱい食べられる」
とか
「たくさんかぶが獲れたら儲かる」
という非常に
リアリスティックな意見を
述べる子供もいました。
なるほど・・・!
案外、そういう読み方をすると
物語の生まれた背景が
違ったように想像されます。
私の妄想は・・・
この『おおきなかぶ』は
ロシアの民話で、
教科書では
A.トルストイによる再話を
内田莉莎子さんが翻訳したものを
使用しています。
いつの時代のロシアのお話なのか
知りませんが、
昔は今みたいにスーパーに行けば
肉や野菜が手軽に買えた訳ではないし、
食糧事情は決して豊かではなかったのでは
と想像します。
だから、おじいさんが
「甘くておおきなかぶになってくれー!」
というのは
ファンタジックな思いではなく、
みんなで食べるのに十分な収穫量を
何としてでも確保したい、
という切実な心の叫びが
つい口から出てしまった・・・
と考えることができます。
そうか・・・
そうすると、
おじいさんがおばあさんを呼び、
その後に、孫娘を呼ぶ、というのも
深読みしてしまいますね。
お父さんとお母さんという
最も体力的に充実してる
世代が抜けている。
ジジババ、子供と動物。
圧倒的な弱小チームです。
お父さんとお母さんは、いないのです。
出稼ぎに出てるのかな?
それとも戦争・・・?
こうなると妄想が暴走して止まらない。
みんなで引っ張っても抜けないほどの
大きなかぶが育ったというのは
飢えて死んだ孫娘の
空想だった・・・
というところまで辿り着いて、
勝手に泣いてます。
国語的には
ロシア語の原文では、
全文を通して言葉のリズムが
重視されていて、
リズミカルな掛け声の繰り返しが
印象的に多用されているそうです。
日本語訳でも、
「大きな大きな」「甘い甘い」
「うんとこしょ。どっこいしょ。」
というように言葉を重ねて、
独特のリズムを損ねることなく
翻訳されています。
そして、それを音読することで、
言葉の響きのもつ楽しさとか
音やリズムによって
物語に彩りが生まれるということを
小さい子供に教える。
それが、おそらく授業の狙いかと
思われます。
大人になると
なんというか
「穿った見方」しかできなくなるから、
子供達には、
素直に、純粋に、
物語として描かれている世界だけを
楽しんでもらいたいものです。
子供時代は
感受性だけを培ってくれれば
それでいいな。