この世は、穴のあいたポイで金魚すくいをしてるようなものだ。
穴があいて枠しか残っていない、もはやポイとも呼べないようなもので
金魚をすくえ、というのだ。
私は必死で金魚を追うけど、水がポイの枠をくぐり抜けていくだけ。
水をすくっているだけ、いや、水すらすくえてない。
周りをみると、金魚を上手にすくってる人もいる。
出来る人もいるんだから、私にだってできるはず、
いや、まて、あの人たちは
けっして穴の開かないポイを使っているんぢゃあ・・・?
そんな不正をするわけないですよ、
あの人たちは金魚すくいが上手い人。
努力してるんでしょうね。
業者はタモで金魚をすくう。
遊んでるんじゃないから。仕事だから。
決して破れないタモで金魚をすくっても楽しくはないだろう。
破れるポイだからこそ、金魚すくいは楽しい。
でもポイが破れて枠だけになっても
水をかき回して金魚を追いかけるなんて
何だかいじましい子供みたいだ。
この方法で金魚が捕れるわけない、と思っているから
必ず金魚をゲットするぜ、という闘志が湧いてくるはずもない。
朝、アラームが6時15分に鳴って、
あと15分、絶対起きないぞ、と布団をかぶる。
この半覚醒の時間に、不思議な考えが頭に浮かぶことがある。
「私の人生、穴のあいたポイで金魚すくいしてるみたいだな」
その時は、世界の深淵な真理を捕まえたような気になるのだが、
起きてしばらく考えを巡らせているうちに
あんまり面白味がなくなっていく。
こうして文章にしても、なんだか間抜けだ。
思えば昨晩、
「この資本主義社会の中で私が生きていくことこそ、無理ゲーなのでは?」
という考えが頭をよぎったのだ。
それで金魚すくいなのか、と納得したが
例証されたゲームが金魚すくいというのが
なんともアナログで、自分らしい。
金魚すくいの例えを敷衍して考えていくうち、
そもそも金魚すくいをしているという認識自体が
錯覚で、もしかして自分は金魚なんじゃないか・・・?
とか考え出したので妄想は終わりにした。
金魚すくいといえば、奈良県の大和郡山市は
金魚の養殖で昔から有名で
そこに金魚すくい名人の三姉妹がいて
大会では毎年優勝してたのだが、
実は穴のあかないポイにすり替えてた
という不正事件がずっと前あったな・・・
なんとも夢のない、つまらない話だ