『高瀬舟』を読みました。
読書感想文です。
主人公の罪人・喜助の生きた江戸時代や、
鷗外の生きた明治・大正時代の人々は
現代を生きる私たちよりも
「死」はもっと身近で、慣れ親しんだ存在だっただろう。
病気や飢饉や天災で、
人々はたやすく死んだのだろうし、
施政者だって失脚するときは
文字通りの意味で命を落とした時代である。
「死」はもちろん
恐れられてはいただろうけど、
リアルに立ち向かうべき敵として
存在していたのかもしれない。
現代人の私にとって「死」は
どこか遠いところにある存在で、
ただ漠然と、恐ろしい、
逃れられないものであると思っている。
でも毎日の生活の中に
死の影はほとんど存在していない。
テレビドラマの中の悲劇的な死とか
外国で起ったおびただしい数の死者を出したテロとか
人が毎日死んでいるのは知っているけど、
リアルな「死」を感じることはない。
喜助の悲惨な生い立ちと辛酸を舐め続けた日々、
たった1人の身内である弟の自死も
それを心ならずも幇助してしまったことも
どれをひとつとっても、絶望するに十分な出来事である。
その絶望しかないと端からは見える生活の中で、
喜助はどこまでも「生」に肯定的だ。
「死」というリアルな敵に対峙するかのように
生きてきて、これからも生きる決意である。
喜助とは対照的に、
高瀬舟の護送の庄兵衛は
現代の私たちに近い感覚で
生きているように見える。
ぼんやりとした毎日を
ただ「生きている」というか。
喜助と比べて「死」の影も薄いが、
「生」の光もそれに呼応するように
薄くなっているように感じる。
だから喜助を見て、
どうしてこのような境地に辿り着いたのかと
不思議に思うのだろう。
喜助は弟の自殺を許してしまったことも、
無実の罪で島流しにされることも
全て納得して受け入れている。
お役所の役人や村の近所の人がなんと言おうと、
自分は誠実に、一所懸命に生きてきたことを
お天道様は知っているという心持ちなのだろうか。
そしてこの世には神も仏もいないということを
知りすぎている筈なのに、
生きることに前向きで明るい。
庄兵衛は自分と喜助の心持ちを比べて、
「いったいこの懸隔はどうして生じてくるだろう」
と思案した。
人の欲望には限りがなく、それが不安を生じさせている。
喜助は欲望を追求することをしていない。
足ることを知っているからだ、という思いに至る。
しかし人は皆、喜助のような悲惨な状況の中から
何かを学び、常に希望を見つけ
前向きに生きていけるわけではない。
喜助のような境地に辿り着ける人は稀であると思う。
そうするとこの懸隔は、
生まれ持った資質がすでに異なることから生じる
という他ないのではないだろうか?
身もふたもない結論だけど、
極貧の中でも、
自力で這い上がれた者、
世を恨んで盗みや殺人を働くようになる者、
絶望して死を選ぶ者、
色々な生き方がある。
また戦争や震災などの
限界状況の中で、
残酷な人間性を露呈させる者もあれば、
自分の誠実さを貫ける人もいる。
どこに違いがあるのだろうか。
それは『高瀬舟』の主題ではないし、
私にはさっぱりわからないけれども、
才能という言葉があって、
喜助には誠実に生き抜く才能があった
ということはできるかもしれない。