「出来ますか?」と問われて辿り着いた地平

「交通安全」というテーマで

コラムを書きました。

 

この夏、PTA活動を通して、

初めて交通安全の標語というものを

作る機会を得た。

 

標語作りという明確な目的のもと、

改めて交通ルールや交通安全について考える

きっかけになった。

 

標語を作る作業は楽しくて、

沢山の標語を作って応募した。

 

優秀者は大江戸祭りのブースに

掲揚されるということで、

(私のは残念ながら選に漏れたが)

多くの標語の中から選ばれたのは

『出来ますか? 子供の前で 信号無視 』

という標語である。

 

この標語について、

私の感じたこと、考えたことを

ちょっと書いてみようかと思う。

 

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「出来ますか?」と

こちらの目を鋭く覗き込むような視線で

切り出すこの手法は、

標語界ではそんなに目新しくはないようである。

 

突然、

今まで考えたこともないようなことについて

問いかけられたら、

人はやはり立ち止まって

答えを返さないと失礼かな?と考え始めるものだ。

 

この問いが「出来ますか、信号無視?」だった場合。

 

これはクローズドクエスチョンといって、

イエス/ノーで答えさせることにより、

質問者の考えや事実を明確にする場合、有効である。

 

もちろん交通安全の標語なので、

信号無視すると答えた人の割合は

50パーセントでした・・・

とかそういうことが知りたいのではない。

 

この問いかけは信号無視が

できるかどうかではなくて、

「子供の前で」という言葉こそ要なのである。

 

「子供の前で出来るか?」と問われれば

イエスかノーではなくて、

「いいや、出来るはずがない」という

主張を強調するための

反語表現であるということは

いくら浅学非才な私にでもわかる。

 

しかしながら、

子供の前で信号を無視して渡るなんて、

私、絶対出来ませんっ!と言い切れる人間は

どの位いるだろうか。

 

つい先日もごく短い横断歩道を

赤信号で渡ろうとして

子供にたしなめられたのは私である。

 

だからと言って子供に

「赤信号は臨機応変に渡っていいのよ!」

とは絶対に言えない・・・

 

このジレンマはどこから来ているのか?

 

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赤信号の標語といえば、

80年代に登場してから今に至るまで

日本人の心に染み付いて離れない、

有名なヤツがある。

 

『赤信号 みんなで渡れば 怖くない』

というあれである。

 

この標語が、ここまで広く世代を超えて

人口に膾炙しているのは、

ある程度の事実を含んでいて、

また人心にこのような考え方が

少なからず存在するからであると

言えるのではないだろうか。

 

かつて私がまだ独身で、

社会人であった頃は

ここで描かれているように

『大多数が賛成した場合、

 赤信号(=ルール)を守らなくても良い、

 それは効率的であるから正義なのだ』

という考えにあまり疑問を持たなかったと思う。

 

今でも一人でいるときには、

この考えが顔をもたげる時がある。

 

しかし、子供を連れている時は、

四十余年生きて来た「私」であると同時に

「母」になっている。

 

その「母」である私は、

「赤信号では絶対止まるの!」と

強く主張するのだ。

 

思うに個人としての私は

未だに社会の大勢側、

いわば強者の視点が残っているのに対し、

子供を連れている私は、

圧倒的に社会的弱者である。

 

子連れ=弱者という図式に

抵抗があるという方もおられるだろう。

 

そういう方の中にも、

ベビーカーで移動してる時には、

至る所にある段差や階段に

泣かされた人は多いのではないだろうか。

 

弱者というのは

虐げられている者という意味ではなく、

社会のインフラの想定外に

置かれているということである。

 

全てのルールは、

とは言わないが少なくとも

交通に関するルールは、

弱者を保護する目的で出来ている。

 

自動車や自転車から歩行者を守ることを

目的として存在しているのである。

 

だから子供を連れて歩くとき

全ての人が交通ルールを守ってくれたら、

安全なのに・・・と願ってしまう。

 

しかし、現実社会では

強者がルールを自分たちの都合の良いように

解釈して運用しているし、

自分もまた時と場合によっては

そっちの立場になり得るから、

なあなあにしているのだ。

 

人の子の母となって初めて、

交通ルールを守ることは

子供達の命を守ることに

繋がっていると実感している。

 

そして交通ルールというものは

全ての人間が、正しく運用することで初めて

その真価を発揮するのだということが

ようやくわかった。

 

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交通安全の標語に

「出来ますか?」と問いかけられて、

ここまで辿りついた。

 

標語は思った以上に

人の心の奥底まで届いている可能性がある。

 

漫然と掲げられているのかと思っていた自分を反省した。

 

交通安全の標語を、

全ての子供達とその親とで

考えながら、楽しみながら、作る。

そんな機会があったら面白いのではないだろうか。

この記事を書いた人

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リョウコ

1974年生まれ。子供が2人と旦那が1人で、栃木県在住。
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