【交通安全コラム】換骨奪胎、なれの果て。自作レビュー

前回のブログの交通安全のコラム、

約2千文字あったものを、苦心して

約千文字に圧縮(?)しました。

 

タイトルは「出来ますか?」問われた私が、考えた

 

この夏、PTA活動で、初めて交通安全の標語を作った。

自分で標語を作ってみて、標語には子の安全を祈る

親の思いが凝縮されていると知った。

 

沢山の作品の中から優秀作に選ばれた標語は、

大江戸祭りのブースに掲揚される。

私の作品は残念ながら選ばれなかったが、

その優秀作の標語から私は新たな知見を得た、

という話を記そうと思う。

 

優秀作は、「出来ますか? 子供の前で 信号無視」というものだ。

 

出来ますか?との問いに何と答えるべきか、まず考えた。

これがもし、「出来ますか、信号無視」だったら、

私は正直に出来ます、と答えよう。

 

褒められたことではないが、

今まで赤信号には臨機応変な対応してきた。

だが、「子供の前で」という条件が付けば、

「出来ません」又は「したくないです」と

答えざるを得ないのではないだろうか。

 

なぜ、一人の人間の中に、

赤信号への異なった評価が共存しているのだろうか。

 

最初の質問に答えているのは、四十余年生きてきた私であり、

次の質問に答えているのは、七年前に母親になった私である。

信号に関しては「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という

考えを今だに引きずっているのだ。

 

無視しない、言ってる自分が 信号無視

標語風にしてみた・・・

 

信号を軽視する自分がいる一方で、

子供には赤信号では確実に止まって欲しいと願っている。

なぜか。信号を守ることは事故防止の初めの一歩だから。

 

大人の私にとっては、信号は時に非効率的であるが、

子供の安全に関しては、当たり前だが、

効率的という尺度はそぐわない。

そこまで考えて気がついた。

信号に限らず交通ルールは、社会の中のより「弱い」

人々を保護する目的で設けられているということに。

 

大人に対して子供は、保護されるべき弱者である。

親としての私は子供の目線で社会をみていて、

子供の安全を最優先に考える社会を望んでいる。

赤信号でも渡るという人が大多数だったら

ルールが改変されてしまう社会では恐ろしい。

ルールは全ての人によって正しく運用されてこそ、

最大の効力を発揮するのだろう。

だとしたら、私は効率主義的を廃して、

信号厳守主義者にならねばなるまい。

 

赤信号 守らぬあなたが 赤信号

・・・来年も落選か。

 

社会は急には変わらないが、気付いた個人が増えれば、

もっと弱者に優しい社会になるだろう。

まずは自分がちゃんと信号を守ろうと思う。

 

一つの標語を見て、自分の慣れ親しんだ観念が、

実は根本的に間違っているということに気付かされた。

標語は漫然と掲げられるだけではもったいない。

大人も子供も一緒になって、楽しみながら

標語を作る時間があったら面白いのではないだろうか。

 

短い文章ほど難しい・・・

 

前回のブログはこちら↓

 

 

前回の長文は全く上手ではなくて、

読み返してみると

余計な言い回しを鼻につくほど多用してる印象。

本当に素人くさい。

 

でも、なんか訴えかけたいという熱量はあるかな、

と改めて読んで思いました。

 

短くなった方は、論の接続がぎこちないし、

文章自体も堅い。

内容的にも、柔軟な考え方の出来ないおばさんが

正論振り回してる・・・ようにも見えますねえ。

 

途中で標語調にしてるのは、

私のサービス精神の現れです。

 

気に入った言い回しを使いたい!

という気持ちに囚われてしまって

文を短くするのが難しかったです。

 

一つの段落をバサッと削いで、

文章を短くすることも

出来るのかもしれないけど、

どこでどうやって文章を繋げて良いのか

迷子になってしまいました。

 

結局、自分の一番言いたいことは何か?が

分かってないから、

文章がやたら長くなってしまうし、

短くするのにも苦心するってことなのかと。

 

最初、交通安全というテーマだと

幅が広すぎるから、

もう少し絞ろうと考えたときに

「標語」を切り口にするのは

ちょっと目先が変わってて面白いんじゃないか?

と思いつきました。

 

標語を作ってみて面白いなあと感じたのは

これは本当のことです。

 

ただ、文章の一番主張したい部分は、

「交通ルールは弱者を守る為にあると気付いた」って

いうことで、それは標語から学んだのかっていうと

微妙に違うんですよね・・・

 

全く嘘って訳でもないけど、

まっすぐ繋がってる訳でもない。

子供連れてどっか行った時の

様々な体験から最近導き出された

自分なりの結論なんです。

 

標語を切り口にするのは、

ちょっと無理があったのかなー?

そもそも

「標語」いいねー、じゃあそれで、

って発想から、自縄自縛に陥ってしまっているのか。

 

これは無理っぽいなーと感じたら、

他の切り口で書いてみるくらいの

自由さが欲しいところです。

 

それが出来ないのはなぜかというと

引き出しが少ないのと、

体力がないというのが大きい・・・

 

精進、精進!

 

この記事を書いた人

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リョウコ

1974年生まれ。子供が2人と旦那が1人で、栃木県在住。
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