お前、金なんにつかうんだよ!
オーイエー!
お金のことがわからない
最近、お金のことを考えてます。
といっても、別に、
生活していくのにお金が足りないわけではないし、
セレブに憧れてるわけでもないのですが。
漠然と、
「やっぱお金持ちって、庶民のことをバカにしてんだろうな〜」とか
「バカにされるのは悔しい、私も金持ちになりたい!」とか
そういうことです。
自分には、確実に、
ヒトのことをお金というものさしで
見てる部分があります。
例えば、
この人はうちと同じくらいの生活レベルだから、
こういう話しても大丈夫、とか
金持ちっぽい身なりだから、バカにされないようにしないととか。
明示的にではないけど、そんなことを
全く考えてないと言ったら、それはウソです。
(こんなこと文章にしてみたら、
本当にバカみたいだ・・・。
一体「バカにする」とか「バカにされないように」って
なんなんだろう?
でももう少し素直な心情を吐露してみよう。)
これは、
「お金」という価値観に囚われている、ということだと思います。
「家族の思い出=プライスレス」みたいな気持ちには正直言って、
まだ、なれません。
「金がすべてじゃない!」と言いたい自分がもちろんいるのですが、
本当は金がすべてじゃないの?
と疑問に思っちゃう自分もまたいるわけです。
デーデ
エレファントカシマシの歌に、
『デーデ』というお金の歌があります。
1988年にデビュー曲として発表されました。
悲しいことあっても 一人きりになっても
金があるじゃないか 金があればいい
もしも君に友達が 1人もいないなら
ふぬけたドタマ フル回転 金が友達さ
宮本さんが、17才か18才の時に書いた歌詞で、
80年代の終わりの、バブルの頃の日本で歌われた
この歌は、金に浮かれた世相を冷笑する若者の書く、
アイロニカルな歌詞として受けとめられていたと思います。
「陽気でありながら、どこかシニカル」と
ATBのひとことライナーノートにも書かれています。
デーデはバラード
最近、ライブで『デーデ』を演奏する前には
「心に染み入るバラードです」とか
「みんなにぴったりのバラードです」とか
「貧乏人に捧げるバラードです」などと曲紹介しています。
バラード?
かなりアップテンポな曲調で、歌詞はシニカル。
一般的なバラードのイメージとは随分異なるから、
気に入ってるジョークなのかしら?と
思っていました。
でもあながち冗談でもないのかもしれない。
30年の間に、シニカルな曲がバラードの響きを持ってしまった、
ということなのかもしれません。
バラードとは
『デーデ』を「バラードです」と言うと、笑いが起こるのは
「バラード」と聞いてイメージするものが
「スローテンポの感傷的なラブソング」みたいな感じだから
ではないでしょうか?
私の中では、バラードはそういうイメージ。
でも違うのかもしれないなあと思って、
検索してみました。
ドイツの詩の形式。「譚詩」と訳される。
短い,叙事的あるいは抒情的な詩をいい,
圧縮された詩のなかに劇的で効果的な筋書を含んでいる。
それはときに恐怖に満ちた暗い内容をもっているが,
民謡風に仕立てられるのが常である。
叙事的・・・事実や事件をありのままに述べ記すこと
叙情的・・・感情を述べ表すこと
「この世の中、金がすべてを支配している。
金より大事なものなんてないんだ。
友達がいたって、そんなもん腹の足しにはならねえよ。
みんなそう思ってんだろ?」
という若者の、冷笑含みの叫びの詩が、
いつの日からか、叙事的になってきてしまった。
この若者は、
「お金が全てなんて思いたくない、そうでないと言ってくれ」と
訴えているように私には思えます。
でも、口では「金がすべてじゃない」と言いながら、
世界はますます金が全ての様相を呈してきて、
大人になって「やっぱり世の中、金がすべてなんだな」と
確信してしまった。
そんな「恐怖に満ちた暗い内容」のうたが
「民謡調に仕立てられている」。
まさに、『デーデ』はバラードでした。
お金は永遠のテーマ
宮本さんは「お金持ちになりたかった」と
非常にしばしば言います。
その割には、お金を親しい人に盗られちゃったり、
投資とかビジネスとかには相当疎そうです。
「お金の持つ巨大な力ってなんなんだろう?」
みたいな興味があって、
知らないものを知りたい、見てみたい、
という純粋な欲求からそういう発言がでるのかな、
と私には思えます。
実際に億万長者になってみないと、
「お金がすべてじゃないよ」と言っても
説得力にかけるし。
宮本さんがお金持ちになって、
「お金より大事なものがある」っていう気持ちで
『デーデ』を歌ったら、
また違う歌に聞こえるのだろうな。