「ばーちゃん」が「お母さん」になる時

一体、何がこんなに気に入らないんだろう?

自分でも冷静さに欠いていると思うが、

朝からばーちゃんとバトってしまった。

孫とパンダが見たいんだって・・・

 

喧嘩の原因は、

ばーちゃんが、子供たちを

動物園に連れて行くってことについてです。

 

パンダのシァンシァンが

1歳になってしまって、

 

もう可愛い子供時代が終わってしまう!

 

子供たちに、パンダをぜひ見せたいから

土曜日に動物園に連れて行く!

 

と、先週あたりから言い始めて、

私は、やだなぁ・・・と思っていたのです。

 

私はパンダに興味がないから

一緒に行きたくないし、

かと言って年寄り&子供2人なんて

全員が要介護みたいなメンツじゃないですか。

 

上野動物園は、

家から30分もかからないけど、

電車の乗り換えもあるし、

人混みの中ではぐれてしまったら

もう見つからないかもしれない・・・。

 

諸々、心配で付いて行った方がいいかなー、

大丈夫かなー?と直前まで悩んでいました。

 

9時前に電話がかかってきたから、

心配だから付いて行こうか?と言うと

 

あんたは何でも心配しすぎ!

子供たちが萎縮してしまう!

そんなんじゃどこにも行けないよ!

ダイジョーブ、ダイジョーブ!

私だって子供3人育ててるんだから!

 

と、いうような事を言われ、

そのダイジョーブダイジョーブが

心配なんだよっ!

心配しすぎの何が悪いんだ!

とキレてしまいました。

 

心配のポイントはダイジョーブ

 

ばーちゃんの言ってることも

理解はできます。

 

これが例えば海に連れてくとか

山に連れてくって言うのならば

私だって、もちろん同行しますが、

近場の動物園なら、まあ大丈夫か、とも思うし

とはいえ心配だし。

 

近所の公園だったら、別に心配はしない。

ばーちゃんと子供1人だったら、

これも別に大丈夫。

 

心配のポイントは

電車に乗る、子供が2人、

それと人が沢山いて広いところに行くって

ことかなあ。

 

自分でも、そんなに心配なら

付いて行けば良いと思います。

 

でもめんどくさいから行きたくない。

 

じゃあ動物園行きは中止か?

 

それは子供がかわいそうだし

私だってそんなことは望んでない。

 

何が問題なんだろう?

としばらく逡巡しました。

 

そりゃあ私は心配性だけど、

99.9%は安全だと思ってても、

常に0.1%は何かあるかもしれない、

って思っていなければ

事故とか思いもよらないことが

現実に起こる確率は上がるのではないだろうか?

 

ばーちゃんの何が心配かって、

「ダイジョーブダイジョーブ」で

今までの人生乗り切ってきたから、

これからの人生も

「ダイジョーブダイジョーブ」で

行ける!と素朴に信じ込んでいる所なんだよな・・・

 

そして、

ばーちゃんの「ダイジョーブ」だった人生は

私から見ると決してダイジョーブだったとは

言えない。

 

車に例えるなら、

あちこちぶっつけてフロントは凹んで、

ボディは擦り傷だらけで、

それでも誰も死んでないし、

怪我もしてないし車も動いてるから

「ダイジョーブ」みたいな。

 

逆にばーちゃんには、

私は、車を少し壁に擦ったくらいで

ギャーギャー騒いで、

事故が怖いからもう車は乗らない!って

言ってるように見えるんだろうな。

 

実際、私は免許はあるけど運転はしません。

怖いから。

 

肉親だから複雑なんだ

 

もし、75歳の、身内じゃない老婆に、

子供を動物園に連れて行ってあげるよ、

と言われたら、絶対に断ります。

 

信頼関係がある知人だとしても、

そんな年寄りに

大事な我が子の命を預けることは

やっぱり出来ない。

 

でもばーちゃんだったら。

 

ばーちゃんが孫とパンダを見たいって

楽しみにしてるのを

心配だからダメー!と禁止するのも

かわいそうだし、

過度に年寄り扱いするのも

老化を早めそうだし。

 

普通に考えれば、

何か問題が起こったわけでもないし、

極めて危険だと思われるケースでもない。

 

「付いて行く」か「任せる」かの

二択しかないし、

普段ならばとっとと決断してるところを

モヤモヤして

第三の選択肢を模索してしまっている。

 

肉親であるということが

問題を複雑にしているのでしょうね。

 

わかってほしいだけなのかも

 

結局、

私が「こんなに心配してる!」

ということを、母に

わかって欲しかっただけ

なのかもしれません。

 

わかってもらったからと言って

何がどうなるわけでもないけど。

 

普通の大人と大人の関係だったら、

私もそこまで人に求めないし、

相手だってこちらのことを

多少、慮ってくれるでしょう。

 

そう考えると、

母と子っていうのは

産まれると同時に始まる

原初的かつ特殊な人間関係、

といえるかもしれません。

 

「自分」と「他人」という

一般的な社会的関係とは異なるものです。

 

もちろん全く違うわけじゃないけど、

どこまで年齢を重ねても

どこかに特殊な領域が残っていて。

 

その特殊な領域っていうのは

「自分」(私)と「他人」(母)に

明確に区別され得ない

共有スペースみたいなもので、

ズカズカと土足で踏み込むことが

許される場所です。

 

ばーちゃんは、私にとって

「お母さん」の役割は

ほとんど終わってるけど、

たまに何かのきっかけで

自分がただの子供になってしまって、

ばーちゃんは「お母さん」に戻ります。

 

感情的になって、

思った事を全部言ってしまう。

 

お母さんが傷つくかもしれないとか、

全く考えないで、言葉も選ばないで

思いをぶつけてしまう。

 

そして、

私が怒りに任せてぶつけてる言葉は

上滑りして、お母さんには

全く届いていないことも

よく知っているのです。

 

そうやって40余年生きてきたからね。

 

言い合いをしても何も変わらない関係。

何も改善もされないし、

かといって

関係がこじれて、切れてしまうこともない。

 

お母さんが死んじゃったらと想像すると

本当に悲しい。

 

今みたいに元気じゃなくなっちゃったら、

弱っていく母に憎まれ口を叩くことは

多分出来ないだろう。

 

10年後には、

母のいない世界を

生きているのかもしれない。

 

それを想像すると

うろたえてしまう程度には

母の存在感は私の中では大きい。

 

でも、だからといって、

お母さんに優しくしてあげようとか

出来るだけ一緒に過ごしたいわあ、とは

やっぱり思わないです。

 

14歳の昔から、

母に対する思いの

根っこにあるのは、

「なんで、お母さんはわかってくれないの?」

という気持ちです。

 

これからも、お母さんは、

やっぱりわかってくれないでしょう。

 

逆に、お母さんに

「あんたの気持ちがやっとわかったよ、

 今までごめんね・・・」

なんて言われたら!

 

そっちの方が恐ろしいわ。

 

だからこれで良いのだ。

 

普通の日々が、1日でも長く続くことが

幸せなんだろうな。

この記事を書いた人

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リョウコ

1974年生まれ。子供が2人と旦那が1人で、栃木県在住。
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