深読みする大人
レオ=レオニの『うさぎたちのにわ』を図書館から借りた時、
最初、一人で読んだ。
それから息子に読み聞かせて、そのあと娘と一緒に読んだ。
読むたびに、全く違う物語のように感じられた。
また、絵も、読むたびに違う絵のように立ち現われてくるのであった。
これはどういうことなんだろう。
娘は、この絵本を気に入ったようであった。
が、その感想は、「うさぎがかわいい」。
蛇がうさぎを飲み込むところでは、「こんな動物いないよ、怪獣だねこれは。」
最後の老うさぎがりんごを食べるシーンでは、
「丸呑みはやばいよ!死ぬよ!」
非常に素直に読書を楽しんでいて、
全く、絵本とはこのように読まれるべきものなのだと思う。
絵本は、一体誰に向けて描かれているのだろうか
灰島かりさんの『絵本を深く読む』という本の冒頭に、
絵本とマンガの違いについて書かれている。
それによると、
両者とも「絵」と「文」のコラボによって成立しているのだが、
マンガは一人で読まれるのに対して、
絵本は音読されることと、それにより大人が介在すること、
この点が大きく異なるのだという。
その結果、絵本の世界には「絵」と「文」の他に、「声」、
さらに大人と子どもがともにいる「場」が発生する。
(『絵本を深く読む』 灰島かり 2017 玉川大学出版部 p,3)
私は、多くの絵本作品は、表向きは子ども向けの体裁をとりつつ、
一緒に読む大人の機嫌も損ねないように配慮されている、と感じている。
ちゃんと子どもの方を向いてはいるんだけど、
横目で親の様子をチラチラと窺っている、
そんな印象の絵本が大多数をしめているように思う。
そんな中で、メインの読者である子どもにとって興味深く、
しかもちゃんとメッセージのあるお話をしつつ、
一緒に読んでいる大人に対しては、また違う視点を提供してくれる絵本が
いわゆる名作絵本として読み継がれていて、
レオ=レオニの作品群は、それなんだと思う。
意図しているのかどうか、わからないけど、
大人には、子どものように素直にこのお話を読み進めるのは難しいのだ。
約束を破ったからには、バチが当たるに違いない
2匹のうさぎは、小さく弱い、子どものような存在を象徴している。
対して老うさぎは、大人であり、伝統的権威や、古い価値観を表しているように思える。
蛇は、ここではないどこかへ誘う存在、自由の象徴であり、
古い価値観と対立し秩序を乱す悪であるといえよう。
老うさぎは「りんごを食べてはいけない」と禁止し、それを破ると
「狐にやられる」という罰が下ると脅かす。
大人は思う。「きっとりんごを食べてバチが当たるに違いない」と。
次に蛇が出てくる。大人は思う。「蛇は悪いやつに決まってる。」
うさぎたちは、りんごを食べてしまう。「りんごに毒が入ってるのでは?」
蛇とうさぎが仲良くなる。「蛇はいつか裏切るに違いない。」
狐に狙われる。「きっと狐に食われてしまう。」
蛇が口を開けて待っている。「やっぱり、狐と蛇がグルだったか!」
老うさぎが帰ってくる。「子ウサギたちはついに罰せられるだろう。」
老うさぎがりんごを食べる。「老うさぎは食べ慣れないものを食べて死ぬのか?」
・・・しかし、物語は最後まで何も悪いことは起きない。
うさぎたちと蛇は仲良しのままで、
老うさぎも世界が新しくなったことを悟り、受け入れる。
誰も君たちを罰することはないよ。
世界は美しく、幸せなところだよ。
怖がることなんて、ないんだよ。
そんな風に、レオ=レオニが子どもたちに語りかけているように思います。
そして、返す刀で、一緒に読んでるであろう大人たちを牽制しているのです。
「余計なこと、言うもんじゃないよ。
これから冒険に出ようっていう子供達を脅かして何になるんだ?
絵本が理想を語らなくって、何を語るんだ?」 と。
子ども時代は、美しいファンタジーの世界に好きなだけ浸っていれば良い。
自分の中に、輝く理想の王国を持っていれば、
無味乾燥で退屈で残酷な世の中で闘うことができる。
ああ、そうか。
これは、あの、ちょっとかわった野ネズミの話のテーマでもあるんだ。
(これだから大人は・・・)